Rain won't stop me

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

 

 

 

 

早朝、耳鳴りなのか何なのか、耳がわんわんなっていて。

その音のような振動のような気持ち悪さで目が覚めて、起きてみると頭痛が酷くて、雨が降っているせいかなと思って。

リモートワークにかこつけてしっかりお昼寝して、でも未だに頭がぼーっとしているのだ。

どうしたら良いのだろう。

 

この前知人と電話で話していた時に「オンライン授業だと知らぬ間に耳も酷使してるから、せめて外付けのスピーカーにするのもおすすよ」と言われた。

その時は全然平気だったのだけれど、もしやオンラインでの弊害なのだろうか。

電子ピアノの音も加えて負担になっていたのだろうか。

 

 

 

圧倒的に経験が足りない。常々そう感じる。

子どもの頃から、今が一番幸せと思うのと同時に、前に進みたいと思う気持ちが同じくらい強くあって。二十代後半なんて大人だと思っていたのに。まだまだだ。力が足りない。

 

10年経ったら変わるかな、って。10年前に思っていた。

10年後のわたしに宛てて書いた高校卒業時の文集は、ただの備忘録だったはずなのに。少しは前に進めたと思っていたのに。

あと一年では、あの頃の理想にまだまだ追いつけやしない。

 

 

 

小学校5年生の時に、国語やら総合やらの学習で出会った、宮沢賢治の作品の数々。

わたしの原点のひとつであり、目標でもある。

 

わたしは小さい頃から本が大好きだった。

でもそれは、物心がつかない頃から絵本を読んでくれた両親と、ものすごい本好きで、会いにいくたびに本屋さんに行っては好きな本を買ってくれた祖父のおかげと思っている。

 

大学生の頃のバイト時代は、国語を教えるのは苦手だった。去年初めて学校で国語を教えることになって、やはりかなり苦労した。楽しかったけれど、それはあくまで隣のクラスの主任の先生のおかげでしかなかった。

 

しかし、わたしが本当の意味で「言葉」に興味を持ったのは、間違いなく小学校5年生の国語の時間のおかげなのだ。そこから文学やら文章を書くことやらがますます好きになったのだ。

その時の文科省の方針で「ゆとり」が導入され「総合」の授業が重視されたことと、学年の先生方の素晴らしいカリキュラムのおかげだった。

 

いろいろ省みた時、いまわたしが相対している子どもたちに、同じようなレベルで何かを「伝える」ことができているとは到底思えない。

 

 

 

 

一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 

 

 

この詩(彼が詩として書いたかものなのかどうかはわからないが)にはまだ続きがあって。

 

 

 

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

 

 

 

と書いてあったらしい。

賢治の家は熱心な浄土真宗の信者だったようだ。

 

「雨」というごく身近な気象現象から始まり、食生活など日頃の心がけといった”自己”から”他者への助力”に繋がり、最後に仏様の名前を持ってくるという順序は、まるで人が生まれてから死に、そして成仏するまでを表すかのような昇華の経緯を表しているようにもとれる。


口に出したときのテンポもさることながら、この少しずつ引き上げられていくような表現が、多くの人にとって心地よく感じられたからこそ、遺作でありながら代表作とされるほど親しまれてきたのであろう。

 

最近「落ち込んだときに読む偉人の言葉」みたいな本やまとめがたくさんあるが、わたしはこうした文学作品から、大いに励まされる、ということがよくある。
賢治もかつて、そうであったのだろうか。

 

そしてこの詩は、もしも自分が生きながらえることができるのであれば、もしも奇跡的に頑丈な身体を頂いて退院したあかつきには、(或いは、死んで生まれ変わる時には、という気持ちもあったかもしれない)、わたしはこのように善い行いをします、という誓いの言葉にも聞こえる。

 

そう思うと、いまわたしがしていることも、賢治がしていたことと然程変わらないのではないか。

人間とは、そういう生き物なのかもしれない。