zweite Advent

眠りたくない夜、というのがある。

わたしは昔から、未来に憧れがあって、希望があって。

だから生きていられる、とさえ思っていて。

 

そんな望んだ“未来”とようやく対峙した時、嬉しさと、幸せと、大いなる反省と、さらなる未来への願望とで、胸がいっぱいになる。

胸がいっぱいになって、満たされて、その心境の中にできるだけ永く留まっていたくて、眠ってしまうのが惜しくなる。

 

置かれている状況や、年齢が変わっても、それは変わらない。

何なら、物心がついてからずっとそうだ。

今が一番楽しい、と心の底から思っていた割には、同じくらい「早く先に進みたい」と思っていた。歳をとる、ということは、その分だけ自分が成長する、ということだと信じて疑わなかった。

今が苦しくて仕方がなかった高校生の時も、時間に解決して欲しかった。時間が経てば、少しでも、よくなる未来を信じて疑わなかった。

 

いつだってそうだった。

いや、わたしだけの話ではなくて、人間皆そうやって生きているのかもしれない。

 

 

眠りたくない夜、わたしは考える。

このまましんでしまえたらいいのに、と。

早くピアノが弾きたい、早く先に進みたい、早く夜が明けてくれないかな、と。

相反する心境の中で、いろいろなことが、怖くもなる。

 

 

ただ。

今夜に関しては、眠りたくないが、そんなに怖くはないのだ。

なんて無責任なのだろう、とは思うけれど。

 

繋がれた手のあたたかさに、いつまでも夢を見ていられそうな気がした。

しかし、桜の木々も眠る冷たい夜の公園で、夜風の中で、ちゃんと目も頭も醒めていた。

正しい言葉が何なのか分からなくて、もっと凛としていたかったのにふわふわしていて。

けれど、一緒にいたい、という気持ちが、同じ形で重なった、と感覚的に思った。

 

 

ありがとう。

また明日。

おやすみなさい。

 

 

今日はわたしにとって、人生で2つ目の、手放したくないものに出会ってしまった日、なのかもしれない。

明日の朝、二つ目の蝋燭に明かりを灯すのが楽しみだ。