硝子戸の中

今の私は馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を容れる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。

不安で、不透明で、不愉快に充ちている。

もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。

夏目漱石・随筆『硝子戸の中』より)

 

 


自己嫌悪だけで確実に1ダース分以上の私は、余裕で破滅しています。

でもそれは、少なくとも明治時代からずっとある真理なのでしょう。

不安で、不透明で、不愉快な現実が嫌だから、多分、自己嫌悪なんて遊戯をするのでしょう。

遊戯なのです。

あんなもの。

楽しくも何ともないだけで、惰性に流されているのに変わりはありませんから。

 

正直、この病はどうにもならないからあきらめているのですが。

(それよりかは英語や数学をやったほうが遥かに捗るでしょう。)

人間にまつわることは、大概が報われないような気がします。

夏目漱石も、同じことを思ったでしょうか。

 

 

 


今日で特編は終わりです。

学校での授業も終わりです。


実は私、先週からカウントダウンしていました。

今日は最後の水曜日…

今日は最後の木曜日…

って。


とっても寂しい。


ところがわたくし、未だに布団の中なのです。

気分が優れなくて。


それで、横になりながら、2月になる前に何か書き残しておこうと思い立ちました。


そこで、ふと思い出したのです。

学校で買った現代文の問題集に夏目漱石の文章が出てきた時のことを。

1年生の時か、2年生の時か…

それさえ定かではないけれど、確かにあの時でした。

私が彼に惚れたのは。


夏目漱石とか、宮沢賢治とか。

彼らの病中の言葉を聴いていると、

病床に伏すということか、ひどく文学的に思えてくるのです。


これこそ、言葉による美化。

言葉による遊戯です。

 

 


あと1ヶ月ばかりで、高校生も終わりです。

高校生、それもこんな受験期の高校生…。


余裕がなくて、周りが見えていなくて。

それでも余裕があるように振る舞いながら、自分を騙しながら、時には葛藤しながら。

貫けやしなくて、様々なものが中途半端で。

ゆえに高校生で、未成年で、子供で。


後年に回想したら、おそらく斯様な言葉で断じていることでしょう。

「若かったな」と。


そしてそれをまた後年に回顧して、同様なことを思っては記憶に色を塗りつけてゆくのでしょう。


そのときの私はまだ、詩人でしょうか。

 


2時間目には間に合うように行きます。

きっと。

恐らく。

多分。